アスリート

伊藤拓郎はなぜ消えた?現在の職業(仕事)や高校時代とプロ野球の成績は?【高校1年日本最速記録の天才】

2018年12月2日放送の消えた天才に
高校1年日本最速記録を持つ天才投手
として伊藤拓郎(いとうたくろう)選手が
紹介されます。

伊藤拓郎選手は
高校1年生の時の球のスピードは
大谷選手よりも速かった投手です。

そんな伊藤拓郎選手の現在の職業や
高校時代やプロ野球時代の成績、
なぜ消えたのかを調べてみました。

伊藤拓郎(高校1年日本最速)の経歴やwikiプロフィールは?

  • 名前:伊藤拓郎(いとうたくろう)
  • 生年月日:1993年4月2日
  • 年齢:28歳(2021年9月時点)
  • 出身:徳島県阿南市生まれ、東京都練馬区出身
  • 学歴:帝京高校
  • 身長:185㎝
  • 体重:90㎏
  • ポジション:ピッチャー
  • 投打:右投げ右打ち

 

小学2年生から野球を始めた伊藤拓郎選手。

練馬区の大泉西中学に進学し
中学生の時は東練馬リトルシニアで
主将を務めていました。

また3年生の時には
U-15(AA)アジアチャレンジマッチ
日本代表にも選出されるほどでした。

当時から最速142キロを計測していて
剛腕と有名でした。

高校は帝京高校に進学し、既に
体が出来上がっていた伊藤拓郎選手は
1年生の春から公式戦にも登板しています。

そして2009年の夏の甲子園で
球速148キロを記録。

高1で148キロって相当な
ポテンシャルですよね。

当時の高校1年生最速記録は
現日本ハムファイターズの
中田翔選手の147キロでしたが、
伊藤拓郎選手が塗り替えたのです。

ちなみに大谷翔平選手も1年生の時の
最速は147キロです。

1年生ながら甲子園のスターと称され
スカウトからも「現時点でもドラフト1位」
といった最高の評価をされた選手でした。

[ad#1]

伊藤拓郎の高校時代の成績は?

高校1年生の春から既に
強豪帝京高校でベンチ入りをし
登板もしていた伊藤拓郎さん。

1年の秋からは背番号11を背負い
2010年の春の甲子園では
1回戦と2回戦を完投しチームはベスト8入り。

しかし2010年の夏の大会は、
東東京予選の5回戦で国士舘高校に
敗れてしまっています。

が最後の夏、3年生の時の
2011年夏の甲子園には出場を果たし、
初戦では大谷翔平選手ようする
花巻東高校と対戦しています。

伊藤拓郎選手と大谷翔平選手の
直接対決は、
(投手)伊藤拓郎 (打者)大谷翔平
3打席1打数0安打2四死球。

(投手)大谷翔平 (打者)伊藤拓郎
4打席3打数1安打。

勝負は帝京高校が勝利しましたが
その後の2回戦で滋賀県の八幡商業高に
敗れてしまっています。

1年生で注目を浴び、
3年生の夏も甲子園に出場した
伊藤拓郎選手でしたが、

1年生の時ほど注目を浴びずに
横浜DeNAベイスターズから
ドラフト9位指名でプロ野球に進みました。

伊藤拓郎はなぜドラフト9位?プロ野球からなぜ消えた?

2011年のドラフト会議で
横浜DeNAから9位指名され
入団した伊藤拓郎選手。

高校1年生の時に、現時点でも
ドラフト1位と評価された投手が
なぜ9位指名になったのか。

それは怪我が原因でした。

伊藤選手の球速についてスポットが
集まるようになり、取材でも
球速の事を聞かれるのが増えたことで

伊藤選手自身も球速に
こだわるようになってしまったのです。

結果、速さを求めるあまり
2年生の時に右ひじを故障。

フォームも崩れてしまい制球力も落ち
徐々に本来の投球が
出来なくなってしまったそうです。

また当時指導を受けていた
投手コーチが帝京高校を
退任したことも重なってしまい
フォームを修正できずに
伸び悩んでしまったみたいです。

しかしどうしても甲子園に出場したい
という思いから速球を諦め、
スライダーと緩急を駆使した
技巧派の投球に変えたそうですよ。

先ほどの動画を見てもわかるように
3年生の時は球速が
そんなに出ていませんよね。

そして結果的には、高校1年の時の功績と
3年の時にもある程度結果を出せたことで
9位指名とギリギリで
プロ野球入りが出来たのです。

しかし横浜DeNA入団以降は
一軍での登板はプロ1年目2012年に
2試合のみで、それ以降は
怪我を繰り返してしまい

2014年の秋、プロ入り3年後
に戦力外通告を受けました。

伊藤拓郎の現在の職業(仕事)は?

プロ野球の舞台から退いた
伊藤拓郎さんは2015年から
独立リーグ(BCリーグ)の
群馬ダイヤモンドペガサスというチームで
プレーをしていました。

戦力外を受けた後、
合同トライアウトを受けたのですが
プロ球団からオファーは無く

そんな時、DeNA時代のチームメイトで、
当時群馬ダイヤモンドペガサスの
シニアディレクターを務めていた
アレックス・ラミレス氏からの勧めで
入団を決意したそうです。

群馬では2015年から2017年の
3年間プレーし1年目は6勝6敗、
2年目8勝2敗の成績をあげて、

3年目は13勝6敗、防御率2.58、
123奪三振と、最多勝と最多奪三振の
タイトルを獲得しています。

合同トライアウトの時は
138キロまで落ちていた球速も、
一時146キロまで回復したそうです。

そして2018年からは、
社会人野球の新日鐵住金鹿島の
硬式野球部に所属しています。
現在も野球を続けているんですね!

職業は日鉄住金物流鹿島㈱に所属なので
物流関係の仕事をしているのでしょう。

群馬入団の時にかかげた
NPB復帰という夢は変わらずに
持っているそうなので、

今後さらに調子を上げていけば
もう一度プロ野球に世界に
戻ってくるかもしれませんね。
まだまだ若いですから十分に
チャンスはあると思います。