今回は1996年に起きた
在ペルー日本大使公邸占拠事件
について取り上げていきます。
2016年12月26日放送の
『世界ナゼそこに日本人』
異国の地で“とんでもない状況”に巻き込まれた日本人
でも取り上げられましたが、
放送では、
在ペルー日本大使公邸占拠事件で
実際の人質となり
死の淵に立ったにも関わらず、
今もその地で暮らし続ける
日本人男性に密着していました。
そこで今回は
在ペルー日本大使公邸人質事件について
真実、真相や、事前に突入が
知らされていなかった日本人人質が
なぜ全員助かったのか調べてみました。
目次
在ペルー日本大使公邸占拠事件の概要
別名、在ペルー日本大使公邸人質事件は
1996年の12月17日に
ペルーの首都リマで起こりました。
リマにある日本大使公邸に
左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」が襲撃し立てこもったのです。
MRTAは人質の命と引き換えに
「服役中の仲間の釈放」や
「身代金」など計4つの要求を提示しました。
事件の日、日本大使公邸では
青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、
天皇誕生日祝賀レセプションが行われていて
出席者約600人が人質となりました。
しかし、MRTAは少数の
人質確保を目的としていたため
(MRTAは14人だったため、おそらく600人を見きれないから)
徐々に人質を解放し、
ペルー政府高官や日本大使館員、
日本企業ペルー駐在員など
合わせて72人が最後までの人質となりました。
(うち日本人24名)
事件発生から127日の
1997年4月22日に軍、
警察の特殊部隊が公邸に突入し
4か月の長きにわたる事件に終止符が打たれました。
人尻のペルー人1人と特殊部隊2人、
テロリスト14名の計17名が亡くなり
日本人24人を含む71名の人質は
重軽症を負った人々もいましたが、
命は無事でした。
建物を占拠され、人質も
たくさんいたのにもかかわらず
最小限と言ってもいいくらいの
被害で事件が終息し
特殊部隊は凄いなと思いましたね。
特殊部隊の突入と救出が成功した理由は?
これだけ少ない被害で抑えられたのは
特殊部隊の準備に他ならないと思います。
ではどんなことをしていたのか、見てみましょう。
人質の中にいた元海軍と連絡
まずはじめに、
建物には食糧や飲み物など
生活に必要な物資は
赤十字を通じ届けられていました。
そこで人質の中にいた
元ペルー海軍提督ジャンピエトリ氏が
こう思ったそうです。
「部隊は公邸内にマイクを
紛れさせ盗聴を始めるだろう」
救援物資のどこかに盗聴マイクが
仕掛けられていると考えたのです。
そこでジャンピエトリ氏は
「私はジャンピエトリだ。
私の声が聞こえているなら
ポケベルに連絡をください」
とあらゆる支援物資に話しかけたそうです。
しばらくするとポケベルに
部隊からメッセージが届き、
以降、ジャンピエトリ氏が
内部の情報を外部に知らせていました。
公邸内部と同じ間取りのセットを作り実演
事件から1か月程経った頃、
ペルーのフジモリ大統領は
事件が膠着状況になったことによる
- 国内外からの批判が高まり
- 内政の不安定
を嫌いました。
ペルーの警察は、フジモリ大統領の
意を受け武力突入計画の立案を始めました。
警察は、密かに大使公邸と
同じ間取りのセットを造り、
特殊部隊が突入するシミュレーションを重ねていたのです。
そして1月7日、
ペルー警察は人質奪還のため
外部の民家から公邸に向かって
密かにトンネル掘りを開始。
トンネルからの突入を計画していたのです。
その内容は、公邸の真下まで
トンネルを掘り、床下を爆破させるというもの。
問題は1階の人質を、
どうやって2階に上げるかでした。
またトンネル堀りの音が
公邸内部に聞こえていると報告され
騒音を隠すために、公邸の正面に
スピーカーを置き大音量で
軍歌を流し続けるなどのカモフラージュ作戦も行いました。
(やはり鍵になっていたのは、人質元海軍との交信)
しかしトンネル掘り作業が
テレビや新聞によって報じられ
テロリストに知られてしまったのです。
テロリストはトンネルが
人質を逃がすものだと考え
1階の人質を2階に移したのです。
(テロリストの半分がトンネルで
脱走経験があったためという説)
これで1階の人質を、
どうやって2階に上げるか?
という問題は解決されたのでした。
なぜ日本人人質全員が助かったのか
あらゆる準備がされてきました。
しかし、突入に関して日本人人質は
誰も知らされてなかったと言います。
また日本政府にも
知らされていませんでした。
突入を知らされず、
いきなり爆発音が聞こえたら
何もできず動けないですよね、、、。
ではなぜ日本人人質が
全員無事だったのか調べてみました。
要因① 日本の平和的解決要求
ペルーのフジモリ大統領は
事件発生翌日すでに
武力突入を検討していました。
しかし日本政府は事件発生当初から
ペルー政府に対して
平和的解決を要求していました。
これにより即時の武力突入は回避されました。
おそらく即時の武力突入を行っていたら
人質被害者は1名、特殊部隊2名
では済まなかったと思います。
また即時の武力突入が無くなり
事件解決まで127日間と延びたことが
日本人人質の命を救ったことになるのです。
要因② 人質生活
日本人の人質の皆さんは
人質という状況下でありながらも
日々の暮らしのように生活をしていました。
朝起きてラジオ体操、部屋の掃除、
将棋やピアノなど普段と
変わらぬような日常を。
また狭いスペースを使って、
効率的に生活をする日本人を見て
テロリストは次第に、
日本人の文化や環境に
興味を示すようになったそうです。
テロリストからすると
掃除などは身分の低い者が行い
人質になっていたエリートが
やることではないと驚いたという証言もあります。
そして、ラジオ体操や将棋など
テロリストのメンバーが
日本人の習慣を真似るようになっていきました。
日本人の監視をしていたのは、
まだ若い少年少女。貧しい親に
武装ゲリラへ売られたそうです。
そして人の子のように
対等に接してくれる日本人と
4カ月間も一緒にいたことで
仲良くなっていきました。
要因③ リマ症候群
この事件を契機に
犯人が人質に対して親近感を抱く
「リマ症候群」が生まれました。
事件127日目の武力突入の際、
監視していたテロリストは機関銃を持ち
引き金に指をかけていたそうです。
しかし共同生活してきた
日本人の人質を撃つことができず、
日本人は処刑を免れて
続々と公邸から全員が生存して脱出しました。
在ペルー日本大使公邸占拠事件まとめ
在ペルー日本大使公邸占拠事件に関して
事件当時と事件の10年後で
様々な情報が飛び交い
真相、真実が浮かび上がってきました。
こちらの記事は参考になります。
こちら
しかし、日本人の人質が全員助かったということは
- 特殊部隊の準備
- 127日間という長い人質生活
- 日本人の文化や環境
などなど、それらがすべて
合わさったものであるとも思います。
先ほど紹介した記事では
ペルー大統領フジモリさんは、
日本人が死ぬことを前提に
武力突入をしたと書いてあり、
おそらくテロリストが
日本人文化に触れていなかったら
全員ないしは大人数の
被害が出ていたことでしょう。
日本人が死ぬことを前提にというのは
確かに腹立たしい事でありますが、
日本人が助かったのも武力突入したからであって
複雑な気持ちになりました。